プロフィール
HN:
たもつ
年齢:
57
性別:
男性
誕生日:
1967/06/05
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こっそりと詩を書く男の人
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ありがとう
僕らの朝食
光あふれる幸福な食卓に
小型の爆弾は落ちた
ばらばらになって美しく輝く体を
ひとつひとつ拾い集め
元に戻していく
どちらのものかわからないところは
昔のように二人で仲良くわけあった
ありがとう
これから郊外の量販店まで
日用雑貨を買いに行く予定だった
ありがとう
今日、命として認められた
ひとやものたち
黙祷しようとして
どうしても瞼だけが
見つからなかった
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かなしみ
こんにちは、たもつさん。
>ばらばらになって美しく輝く体を
>ひとつひとつ拾い集め
>元に戻していく
>どちらのものかわからないところは
>昔のように二人で仲良くわけあった
こう書いてしまうところに、たもつさんのひとつの限界点を感じてしまいます。
たもつさんの詩の中では、特に、
>どちらのものかわからないところは
>昔のように二人で仲良くわけあった
みたいな書き方をすることが多いです。
けっきょくのところ、ココには戦争の哀しみは描かれていない。
「のようなもの」が書かれているだけ。
そんな気がしました。
>ばらばらになって美しく輝く体を
>ひとつひとつ拾い集め
>元に戻していく
>どちらのものかわからないところは
>昔のように二人で仲良くわけあった
こう書いてしまうところに、たもつさんのひとつの限界点を感じてしまいます。
たもつさんの詩の中では、特に、
>どちらのものかわからないところは
>昔のように二人で仲良くわけあった
みたいな書き方をすることが多いです。
けっきょくのところ、ココには戦争の哀しみは描かれていない。
「のようなもの」が書かれているだけ。
そんな気がしました。
>saraさん
こんにちは。はじめまして。
感想ありがとうございます。
「人は人のために泣くことはできない」
僕がお世話になった青年詩人の言葉です。
人は自分のためにしか泣くことはできない、そう感じています。
人のために泣くことができる、と明言する人がいたら、僕はその人を嘘つきと呼ばざるをえません。
僕は戦争を知りません。僕が戦争の悲しみを描いたら、それは嘘でしかありません。沖縄の平和祈念資料館にも鹿児島の特攻基地にも行ったことがあります。そこから伝わる悲しみはありますが、僕がその悲しみを借りて何かを語ればそれは嘘になってしまう。
僕にできることは、その悲しみをものさしにして距離を測りながら生きていくことだけです。
直近の一文の「僕」を「人」に読みかえてもらっても構いません。何も知らない人間が戦争反対、平和を訴えるその行為に違和感を覚えます。
そもそも「平和」を突き詰めてくと、「自由」とは逆の方向に行かざるをえない、という人間が作り出す社会や思想の矛盾、限界にぶち当たり、その矛盾や限界を崩すだけの知恵を残念ながら人間はまだ取得していません。
その一方で、何も知らない人間が平和や戦争反対を訴えることは、世の中のバランスを保つために必要なことであると思っています。「偽善」、「建前」と非難されようが、そのような声を出していくことは世の中の秩序維持のために必要なことであるし、逆に誰もが「偽善」や「建前」を捨ててしまえば、世の中は混沌としてしまうでしょう。
僕の詩は悲しみではありません。それは全部の詩を通じて言えることです。
「言霊」なんて非科学的なものも信じていません。センチメントの垂れ流しなんて商業ベースで腐るほどあるのでそれで十分です。
戦争の悲しみを訴えるものだって世の中にあふれています。それで十分です。今さら詩でそれをやる必要は、少なくとも僕にとってはありません。
僕の詩は告発です。それは、告発することで何かを書いている気持ちになっている、そして許された気持ちになっている自分自身を告発することでもあります。
むしろ限界なのは
>どちらのものかわからないところは
>昔のように二人で仲良くわけあった
ではなくて
>黙祷しようとして
>どうしても瞼だけが
>見つからなかった
なんですけどね。人間としての。
表現としての限界なら、ああそうですね、としか言いようがありませんが、「多い」ということなら「そうではない」ものもあるということでいいですよね。
一応抗ってはいるんですよ、これでも。自分の表現の限界に。
感想ありがとうございます。
「人は人のために泣くことはできない」
僕がお世話になった青年詩人の言葉です。
人は自分のためにしか泣くことはできない、そう感じています。
人のために泣くことができる、と明言する人がいたら、僕はその人を嘘つきと呼ばざるをえません。
僕は戦争を知りません。僕が戦争の悲しみを描いたら、それは嘘でしかありません。沖縄の平和祈念資料館にも鹿児島の特攻基地にも行ったことがあります。そこから伝わる悲しみはありますが、僕がその悲しみを借りて何かを語ればそれは嘘になってしまう。
僕にできることは、その悲しみをものさしにして距離を測りながら生きていくことだけです。
直近の一文の「僕」を「人」に読みかえてもらっても構いません。何も知らない人間が戦争反対、平和を訴えるその行為に違和感を覚えます。
そもそも「平和」を突き詰めてくと、「自由」とは逆の方向に行かざるをえない、という人間が作り出す社会や思想の矛盾、限界にぶち当たり、その矛盾や限界を崩すだけの知恵を残念ながら人間はまだ取得していません。
その一方で、何も知らない人間が平和や戦争反対を訴えることは、世の中のバランスを保つために必要なことであると思っています。「偽善」、「建前」と非難されようが、そのような声を出していくことは世の中の秩序維持のために必要なことであるし、逆に誰もが「偽善」や「建前」を捨ててしまえば、世の中は混沌としてしまうでしょう。
僕の詩は悲しみではありません。それは全部の詩を通じて言えることです。
「言霊」なんて非科学的なものも信じていません。センチメントの垂れ流しなんて商業ベースで腐るほどあるのでそれで十分です。
戦争の悲しみを訴えるものだって世の中にあふれています。それで十分です。今さら詩でそれをやる必要は、少なくとも僕にとってはありません。
僕の詩は告発です。それは、告発することで何かを書いている気持ちになっている、そして許された気持ちになっている自分自身を告発することでもあります。
むしろ限界なのは
>どちらのものかわからないところは
>昔のように二人で仲良くわけあった
ではなくて
>黙祷しようとして
>どうしても瞼だけが
>見つからなかった
なんですけどね。人間としての。
表現としての限界なら、ああそうですね、としか言いようがありませんが、「多い」ということなら「そうではない」ものもあるということでいいですよね。
一応抗ってはいるんですよ、これでも。自分の表現の限界に。
はじめまして
はじめまして。
さまよっていたら、ここにたどり着きました。
ところで
>何も知らない人間が戦争反対、平和を訴えるその行為に違和感を覚えます。
全く同感です。
>何も知らない人間が平和や戦争反対を訴えることは、世の中のバランスを保つために必要なことであると思っています。
バランスか・・・
>黙祷しようとして
>どうしても瞼だけが
>見つからなかった
>なんですけどね。人間としての。
ここ、同感です。
この、自分の人としての限界、私も感じています。この苦しみを感じつつ生きていくこそが正に「生きる」ことなのかな。
残りの詩も暇を見つけて
読み込んでいきます。
まずはとりあえず、ご挨拶です。
さまよっていたら、ここにたどり着きました。
ところで
>何も知らない人間が戦争反対、平和を訴えるその行為に違和感を覚えます。
全く同感です。
>何も知らない人間が平和や戦争反対を訴えることは、世の中のバランスを保つために必要なことであると思っています。
バランスか・・・
>黙祷しようとして
>どうしても瞼だけが
>見つからなかった
>なんですけどね。人間としての。
ここ、同感です。
この、自分の人としての限界、私も感じています。この苦しみを感じつつ生きていくこそが正に「生きる」ことなのかな。
残りの詩も暇を見つけて
読み込んでいきます。
まずはとりあえず、ご挨拶です。